11-004-1.gif

 

判断を行う人たちが今まで通り、自分の町や村だけ良ければいいと考えるような人たちであれば、地方分権による責務を果たせないと思う。
●21世紀の地方行政の一番基本は何かといえば、それは文書主義から現場主義への転換である。
伝承芸能の保存会から事実と異なる文書が来ると、それが国の機関にまでそのまま上がって行くような、現場は二の次、三の次という体系の中で地方分権が行われれば、地方分権は何の実も結ばない。まず、公務員よ現場に立て、そして現場の自分で正しく掴んだ情報を議員に送りなさい、と言いたい。こういう体制を基本的に作っておかないと、地方分権は結局単なる事務機能が中央から地方へやってきて、地方の役場がその分だけ忙しくなった、それだけに終わってしまって、地方の住民には本当に生きた権力、あるいは権利が来ないことになる。
●どうやったら村がおこり、町がおこるかということを、まず自分自身の目で住民が確かめていく。自分の町、自分の村を自分の足で歩き、自分の目で見つめなさい。そこからでないと始まらないと言いたい。
例えば、熊本県の三加和という町に、江戸時代から伝わっている少年神楽があった。県の案内にもこの町の案内にもでていないが、戦争中も子供だけでやっていたので中断しないで受け継がれてきた。その神社の神主さんの話では、小さい時に神楽を習った子供で、少なくともこの90年間非行に走った子供は一人もいないということであった。一昨年、全国の伝承芸能の社会的背景について、私は日本中を調べたが、伝承芸能が受け継がれている所にも非行やいじめが無いということがわかった。
●かつての日本人には地域の子供は地域で育てるという不文律があった。なぜ伝承芸能がある所に非行が少ないかというと、子供たちの話では、小さい時に自分に芸能を教えてくれたおじさんや、手伝ってくれたおばさんが近所に住んでおり、そういう所では、たばこを吸ってなんかいられない、ということであった。
子ども会について全国の18の都道府県で調査し、実際に子ども会に尽くしている方達と会って話を聞くと、やはり伝承芸能と同じ結果を得た。小さい時に子ども会に入っていた子供は非行に走らないという事実があるのである。
●私は地方分権の本当の意味はここにあると思う。地方の方々が自分の県や自分の町や村を、法律の条文ではなく、実感として自分の県は自分の市町村はすばらしいんだと思うところに、地方分権の一番大きな意味がある。戦後、日本人は国家という概念が捕らえられず、愛国心はあるかと問われた時に、すぐに答えられない状況の中で暮らしている。こういう状況の中では、人間の心のつながりは失われていってしまう。今、そうした状況が少しずつ解体しつつあり、自分の生活の中から心のつながりを拒んでいこうという方向に漸く変わりつつある。その具体的な現れが、地方分権である。
●青森県は日本でおそらくナンバー1の原子力県であり、その原子力を県民がどう受けとめていくか、ある面では大きく青森県に権限が委譲されてくる部分もおそらくでてくるのではないかと思う。そういう時に大切なのは、原子力そのものが、まだ結論が出ていない科学であるので、はっきりとした結論が出るまで、賛成にしろ反対にしろ話し合いを続けていくという姿勢である。
民主主義の一番基本的な条件は、いつまでも話し合うという姿勢に甲乙両者がたっているということである。あの人ともこの人とも語り合う。だから民主主義とは大変な遠まわりであるが、出てきた結論にはいろいろな人の意見が反映しているから民主主義はいいものなのである。その語り合うということが、地方分権の重要な項目と考えている。
●次に取り上げたいのは、女性の力の重要さである。三内丸山遺跡を例にあげると、出土した様々な遺品判定するのに、女性の生活からのものの見方が必要であると考える。歴史

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ